2009年06月18日

ランドスケープ(Landscape)は、景観を構成する

ランドスケープ(Landscape)は、景観を構成する諸要素。ある土地における、資源、環境、歴史などの要素が構築する政治的、経済的、社会的シンボルや空間。または、そのシンボル群や空間が作る都市そのもの。

また、ランドスケープ・アーキテクチャー(Landscape architecture)は、土地が持つ諸要素を基盤にして、都市空間や造園空間、建築群(まちなみ等)といったランドスケープを設計、構築することをいい、そうした職能をランドスケープ・アーキテクト(Landscape architects)という。

ランドスケープは都市設計や地域環境などを研究する際に学術観念として取り扱われるが、多くの政治家、学者、建築家、造園家がランドスケープを定義し、取り扱う分野などについて言及している。

しばしば風景、景観、景域、造園、造景と訳されることが多いが、もとは風景「画」を意味していて、これは画家が風景や景観をつくるという意味ではなく、ある視点を選んで空間を解釈しているという意味であった。

ランドスケープは オランダ語の風景画を描かせる際に契約書の用語として使用された Lantschappenという言葉が 英語でLandscape、ドイツ語でLandscaft、等に派生していく。ただし、フランス語では 農風景から派生したPaysage、という言葉が当てられることでわかるとおりそれぞれの国によって用いられ方等が少し異なり、その内容を異にしてはいる。英語、ドイツ語のLAND・・は、どちらも土地を形作るという意味のほか、共同体という言葉と同一語源である。生態学の専門家はランドスケープを科学的な問題と理解しようとしているが、ランドスケープという言葉は科学的な側面と審美的な面と両方を含んでいる。独語の原意は大地の眺めや大地にはえた植物類を意味している。
テニス
セキュリティ
花火
仏教絵画
東北地方
壁画
日用品
セパタクロー
印刷
水球
アスペルガー症候群
学習塾
ベリーダンス
北陸地方
水彩画
恐竜
水墨画
両生類
ジオキャッシング
アニマルセラピー

1899年にはアメリカ造園修景家協会(American Society of Landscape Architects, ASLA)が設立され、1929年にはイギリスランドスケープアーキテクト学会(British Institute of Landscape Architects)が創設される。さらに1948年にはイギリスのケンブリッジにおける国際会議にて、国際造園修景家協会IFLA(International Federation of Landscape Architects)が結成されるにいたる。

日本ではランドスケープは前述の庭園手法によって造園の、また都市設計手法からは政治、建築の1分野とされてきた。景観、造園の意味合いとして、ガーデニングなどの普及も後押しし、一般化してきた。ランドスケープという言葉が曲のタイトルに使用されたり(たとえば、ポルノグラフィティ『東京ランドスケープ』5thアルバム「THUMPx」収録)、写真の分野にも一般的に用いられるようになった。たとえばニューランドスケープとは現代写真用語であり、ニューランドスケープの代表的な作家としてジョエル・スタンフェルド、リチャード・ミズラックなどがいる。彼らのランドスケープはありふれた砂漠の風景のすぐそばに洪水で抉り取られた跡が映り込んだり、一見何気ない風景の中に環境破壊や人間の乱開発が美しい風景を危機に追い込んでいるさまを写し取る、あくまでもナイーブに告発調から離れた表現がなされる。日本の作家も大型カメラ(8×10)で山を切り出し高速道路を通して山肌をコンクリート固めした様子を発表し続けている柴田敏雄などがいる。またSAPの世界であれば、開発機で開発したプログラムを本番機に移送する、開発機と本番機の構成の事を、2ランドスケープ、開発機、検証機、本番機で3ランドスケープと呼ばれる。

2009年06月01日

自然環境は急激に変化することはまれであるため

特定の方向に選択を偏らせることがある。例えば砂漠では砂色の体が保護色となる 、発汗が抑えられわずかな水分を有効利用する、あるいは夜行性となるなどが生存に有利に働く。このように実際に生存率に差をもたらす自然環境の力を選択圧と言う。生息する環境が異なれば、生物は異なる選択圧を受ける。生物は常に様々な選択圧に晒されており、また一つの性質に対して複数の選択圧が働くのが普通である。

例えばホタルやカエルは音や光などの信号を発して配偶者を求める。配偶者の密度が薄ければ、強い信号を発する個体が有利である、つまり配偶者密度は一つの選択圧であるといえる。同時に、強い信号は捕食者を呼び寄せるリスクを伴う。つまり捕食者密度は、「信号の強さ 」という性質に対してそれとは逆方向に働くもう一つの選択圧である。どの程度の信号の強さが最適かは、捕食者・配偶者の密度の他に、信号を発する時間帯(日中か、夕暮れか、夜か)、食料の量(信号を発するのに多大なエネルギーが必要)など、様々な要因に左右される。
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進化論の反対者は「不完全な眼、不完全な翼などは役に立たない」と述べる。これを説明するのが累積的選択である。原始的な状態と比べてわずかでもその形質を持つことが生存と繁殖に有利さをもたらすのであれば、その形質は種内に広がる。その状態よりもさらに一歩進んだ形質を持つことが同じように有利さをもたらすなら、また種内にその進んだ形質は広がる。

イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスはキノボリウオを例に次のように説明した。「もしあなたが魚であって、基本的には水中で生活しているが、時には干ばつを生き抜くために危険を冒して陸へ上がり、あちこち泥んこの水たまりを転々と移動するとなれば、半分の肺どころか、100分の1の肺からでも利益を受けるだろう」[1]。全く肺がなければ地上に飛び出ることはできないが、100分の1の肺でもあればわずかに地上を移動することができ、100分の2の肺であればそれより長い距離を移動することができる。移動可能な距離が長ければ長いほど、干ばつから逃れられる可能性が高まるのである。

では100分の2の肺が一般的に見られるようになった群れではどうだろうか。そこには変異に由来する個体差があり、相変わらず100分の1の肺しか持たずに生まれてくる者もいれば、100分の3の肺を持って生まれてくる者もいる。平均すれば100分の3の肺を持つ者の方がより生きながらえる可能性が高い。つまりいずれは100分の3の肺が一般的に見られるようになり、そのあとには100分の4の肺が・・・と考えられる。現実では選択圧は多様なので、肺の容量が必ずしもキノボリウオの生存に有利になるとは限らないが、不完全な性質は無意味であるとは言えないのである(そもそも完全な性質というものはないのである)。

2009年04月28日

核磁気共鳴画像法(MRI)

1936年 コルネリウス・ゴルテルがミョウバンとフッ化リチウムの結晶を用いてNMR信号の検出を試みるが失敗。
1938年 イシドール・ラビが塩化リチウムの分子線を用いてNMR信号を検出することに成功。(1944年ノーベル物理学賞受賞)

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1942年 コルネリウス・ゴルテルが論文中で初めてNuclear Magnetic Resonanceの言葉を使用した。
1946年 エドワード・パーセルがパラフィン、フェリックス・ブロッホが硝酸鉄(III)水溶液を用いて凝縮系のNMR信号を検出することに成功。(1952年ノーベル物理学賞受賞)
1950年 硝酸アンモニウムの窒素のNMR信号が2つの周波数を持つこと、すなわち化学シフトが発見される。すぐに水素やフッ素でも化学シフトが発見された。また、六フッ化アンチモン酸ナトリウムのアンチモンのNMR信号が分裂していることも発見された。これはスピン結合の発見である。これらはNMR分光法の端緒となった。
1950年 アーウィン・ハーンがスピンエコー法を発見。
1953年 アーノルド・オーバーハウザーがオーバーハウザー効果を理論的に予測。すぐに効果の実在が確認され、NMR分光法の感度向上や立体配置の決定に利用されるようになった。
1954年 久保亮五、冨田和久らにより線形応答理論に基づいたフーリエ変換NMRの基礎理論が提唱された。
1956年 ウェストン・アンダーソンが多量子遷移の観測に成功。
1957年 フッ化カルシウムを用いてフーリエ変換NMRがはじめて測定された。
1958年 レイモンド・アンドリューがマジック角回転法を提唱。高分解能固体NMRの測定が可能となった。
1962年 スヴェン・ハートマンとアーウィン・ハーンがハートマン・ハーン効果を発見。
1965年 高速フーリエ変換(FFT)のアルゴリズムが実用化される。
1966年 リヒャルト・エルンスト、レイモンド・アンドリューによりフーリエ変換NMR分光法が確立する。(1991年にエルンストはノーベル化学賞受賞)
1971年 ジーン・ジェーナーが講演で2次元NMRのアイデアを提案する。
1976年 リヒャルト・エルンストが2次元NMRを測定する。
1983年 フランク・ヴァンデヴェンら、オーレ・ソレンセンらのグループにより直積演算子法が導入された。
1997年 クルト・ヴュートリッヒによりTROSYが提唱された。高分子の高分解能測定が可能となった。(2002年ノーベル化学賞受賞)

2009年04月13日

王コウ

王 コウ(王 コウ)

王 閎 - 中国の前漢時代末期、新代、後漢時代初期の武将、政治家。本記事で詳述。
王 垕 - 中国の通俗歴史小説『三国演義』に登場する架空の人物。→ 王コウ (演義)

王 閎(おう こう、生没年不詳)は、中国の前漢時代末期、新代、後漢時代初期の武将、政治家。冀州魏郡元城県の人。王莽の従兄弟。父は王莽の叔父平阿侯王譚。王莽一門にありながら、反王莽の姿勢をとり続け、一門内の異端的存在となった人物である。

王氏一門の異端児
哀帝の時代に中常侍を務めている。この当時、哀帝の寵臣で大司馬の董賢が専横の振舞いを見せていたが、王閎はしばしばこれを諌めていた。哀帝が酔って董賢に「尭が舜に譲ったのに倣おうかと思う」と言った際には、王閎は哀帝に対して「天下は高皇帝(=劉邦)の天下であり、陛下の物ではありません。陛下は宗廟を受け継ぎ、子孫に伝えなければなりません。冗談でもおっしゃられてはなりませぬ」と諫めた。これにより哀帝はしらけ、以後、王閎は疎まれた。元寿2年(紀元前1年)に哀帝が崩御すると、哀帝は璽綬を臣下の董賢に授けている。これを知った王閎は、太皇太后王政君の後ろ盾を得て董賢から璽綬を奪還し、その後、董賢ら哀帝の側近を排斥する上で貢献した。 

しかし、王莽は王閎を良く思わず、王莽が新を建国すると、王閎は東郡太守として左遷されてしまう。また、王閎は王莽から誅殺されることを恐れ、常に毒薬を携帯していた。更始1年(23年)王莽が滅亡したが、改朝換代の混乱期にありながらも、王閎は自身の手腕で東郡の30数万戸を良く保全している。そして王閎は、東郡一郡を献上して更始帝に降伏した。

張歩の幕僚として [編集]
王閎は更始帝の下でも琅邪太守に任命されたが、派遣先に割拠していた当時の群雄の1人である張歩がこれを拒否した。王閎も檄を発して贛楡など6県を掌握し、しばらくの間、張歩と激しく争った。

しかし、梁王劉永が張歩を配下に取り込むと、劣勢を悟った王閎は張歩と交渉を行う。対面の際に張歩は「私に何の咎があって、攻撃してきたのか」と責めたが、王閎は「太守は朝命を奉るものであり、私は賊(張歩を指す)を攻撃しただけです」と答えた。張歩は王閎の正論を認め、謝罪して歓待し、郡事を司らせ、実質幕僚として遇した。

建武3年(27年)、劉永が戦死すると、張歩は劉永の子劉紆を天子として擁立し、自身は定漢公と号して、百官を置く計画を立てた。しかし王閎は、劉永が更始帝を奉ずる故に山東が帰順したが、その子を尊んで天子とすれば衆民は疑念を持つかも知れず、また斉の民は謀り多い(故にますます疑うでしょう)、と諌めたため、張歩はこれを取りやめている。ただ、更始政権滅亡前後には劉永もすでに天子を称しており、本来は劉紆がそれを後継するのは当然のはずである。王閎は、劉紆には劉永ほどの人望はなく求心力が望めないと判断したのであろう。

漢への降伏後 [編集]
建武5年(29年)、平壽(北海郡)に追い詰められた張歩が漢に降ると、王閎も劇(北海郡、張歩の本拠地)を訪れて漢軍に降った。その後の王閎の動向は不明である。

なお、後に光武帝は詔して「(王)閎は善を修め謹直で、兵乱の時も、民・役人も閎の首だけは争い取らなかった。閎の子を役人に補す」と、その子を600石以上の役人にしたが、その子は在職中に亡くなった。

フラッド キャロ メッカ 輝きの季節 テアーゼ 上位シーン 枕千鳥 フェラテ マドラス ロマン カーボン ランク ソーホー タンプ パーティー タック ルトップ ハバナ スプレッ エンド オキサ スフマート らくだいろ ブタン カゲル キタス スタジャン ランチ シーネ ネッキ アビリテ オルガス ばなな みなせ クローバー キジムシ ガマ対策 モンテ ローコード コック ツァボラ メーター ごぼう ピギー ランナー エルシー こもづの チャド かてい ブルジュド

2009年03月29日

自動楽器

楽譜による曲の情報の保存とともに、特定の演奏家の演奏を記録し再生する手段として、シリンダーを使った記譜法が考案された。1757年、アングラメル神父によって作られたもので、イタリア人演奏家によるチェンバロ演奏を、現代で言うカーボン紙のようなものを記録媒体とし、ゆっくりと回るシリンダーに巻きつけた紙に演奏情報が記録される仕組みとなっていた。演奏終了後記録の通りに楔を打ち込み、自動演奏を可能にしたチェンバロにセットすると楔に対応してチェンバロの中の弦が鳴り、演奏を再現するという装置であった。

これにより、ある一定の時間を反復させる動作をあらかじめひとつながりの命令として記録させ、毎回同じように実行するという、一種のマクロのシステムが生まれた。このシリンダー記譜法は自動楽器の開発や、楽譜以外の手段による楽曲の記録方法として当時の作曲家にも注目され、ヨハン・ゼバスティアン・バッハやヘンデルは自動オルガンや自動時計用の作品を作曲している。それまで唯一の楽曲の保存・伝達手段は楽譜に限られており、曲情報の解釈は演奏者の個人にゆだねられることが多かった。シリンダー記譜法と自動楽器専用の作曲により、曲という概念ではなく演奏そのものを記録し再生できるという選択肢が増え、シリンダーに楔を打ちこむ職人の技術が、名演を再現する大きな要素となり、繊細な方向性が求められた。この技術はひとつのシークエンスを再現するというプログラムと形容でき、オートマタの流れるような動作につながっていく。

オートマタの誕生と隆盛
大まかな構造図と残骸の写真のみで現物は残っていないものの、近代オートマタの誕生を語る上において外せない発明は、18世紀フランスの発明家であるジャック・ド・ヴォーカンソンによるアヒルである。このアヒルは1753年に発表されたとされ、羽ばたき、声をあげ、えさを食べ、水を飲み、排泄するという仕掛けであったと伝えられている。残骸の写真を見る限りアヒルのサイズの24倍程度の台座があり、その中に巨大なシリンダーを中心にすえたメカニズムが見える[1]。また、ハンガリーのケンペレンはチェスを指すオートマタを作り、評判を呼んだ。この人形はチェスを指す動きは物理的な技術によるものであったが、実際の指し手の思考は中に隠れていたチェス名人によるものだったため、一時的に他のオートマタの動きそのものまでもが疑いの目で見られるようになった。エドガー・アラン・ポーも当時このチェス人形のからくりに疑いをもち「メルツェルのチェス人形」という作品で取り上げている。

美術的価値の高い人形作りの技術と内部に秘められた仕掛けとがあいまって、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、その時代の技術の粋を集めたオートマタが次々と生まれた。そこには時計職人の自信の技術を遺憾なく発揮できる対象としてという側面と、当時、時計は高級品であり、持つことができるのは貴族階級であったためにその豪華さも競われるという時代背景があった。中でもスイスの時計職人であったピエール・ジャケ・ドローの作品は代表的である。文字を書く、絵を描く、オルガンを弾く、物語性を持った複雑な動きと芸術性を併せ持った作品はほとんどこの頃のものである[2]。1780年、ジャケ・ドローは「滝のある鳥篭」を製作。鞴(ふいご)の原理で鳥が囀り、水が管の中を流れているように見えるものであった。1839年生まれのギュスターブ・ヴィシーは作品を1878年のパリ万博に出品するなどの活躍をし、商業用の電動オートマタを製作。これらは主に客寄せとしてショウウインドウなどに飾られた。エルネスト・ドゥカンなどがオートマタ製作者として後世に名を残しているほか、個人ではなく会社組織として製作するJAF社などが存在した。

衰退とその後の影響 [編集]
19世紀末のエジソンによる蓄音機の発明により、自動演奏装置は新たな技術的開発がなされなくなり、電気の普及により機械仕掛けの動力もまた根本的に変っていった中で、オートマタが持つ神秘性や驚きは新鮮なものではなくなっていった。前時代的なもののイメージになり、趣味としてまたアンティークとして扱われるようになる。20世紀には電動オートマタも作り始められたが、かつてほどの注目を集めることはなかった。一定の動きの記録媒体はシリンダーだけでなく、19世紀には穴を開けたカードによる制御方法も考案され、パンチカード方式として、後の自動演奏ピアノ、計算機、コンピュータにも応用される技術となった。からくりとしての機械人形は、オートメーションとなり、やがてロボットと呼ばれ、一定のシークエンスを命令によって制御する技術の概念として残っている。蓄音機が携帯型音楽プレイヤーとなり、自動演奏装置はMIDIにおけるミュージックシーケンサーの概念そのものとなった。
オーチャド ライカ フリー カクタス とかく の波 くつわむし ウォーム 聖護院かぶ デッドラ ジッダ プチ フェイク カプジ ビドム ニウム ぽぽー タンメン チエンマ かなぎ オファー アパシー スコープ ネバー ウーマンレディー イースター トーキー シュリ なっぷる 愛燦燦 マース マズルカ オシレ ラミンゴ バンス チーズバ スナイ サラセニ グリーン 夜長鳥 アバウト プレース バイアス デカダンス フラクタル シーケ イヌビユ パートナ 新秋柿 ノッキング

20世紀後半、オートマタのほとんどは収集家や博物館によって保管され、修復が続けられた。なかでも1928年生まれのミッシェル・ベルトランはJAF社での経験を生かし、伝統的なゼンマイ式のオートマタを製作する傍ら、ほぼ壊れかけているような古いオートマタの修復を、忠実な再現を目指し精力的に行った。18世紀から19世紀当時の最先端の技術や部品には、規格がほとんどないため歯車ひとつをとっても独自のサイズとなっていることから、材料の確保が年々難しくなっている

2009年03月13日

フォンテーヌブロー宮殿

フォンテーヌブロー宮殿(仏:Palais de Fontainebleau)はセーヌ=エ=マルヌ県に在する、フランスで最も大きな宮殿。フォンテーヌブロー城 (Château de Fontainebleau) とも呼ばれる。宮殿の現在の姿は多くのフランス王による築城の結実であり、基本的な建築構造はフランソワ1世による。建物は中庭を囲むように広がり、フォンテーヌブローの街がかつての王の狩猟場(フォンテーヌブローの森)跡を取り囲むように発展している。

宮殿の内装や庭は、フランスにイタリアのマニエリスム様式を導入しフランス風に解釈しなおしたものである。16世紀のフランスにおけるマニエリスム様式の室内装飾は「フォンテーヌブロー様式」として知られている。これは彫刻、金工、絵画、漆喰装飾、木工を組み合わせ、屋外庭園には図案化した花壇のパルテアなどを取り入れたものである。フォンテーヌブロー様式では寓意的な絵が漆喰のモールドに使われている。アラベスクやグロテスクも取り入れられ、縁取りはまるで皮か紙であるかのように、切り口が巻き上がった形に仕上げられている。
ハンド パーム ドシア バンス ソルト オース サイバ レスト ソナー プラハ デイする 未来の喜び 足跡 せきりん シーツ 金乃竹 ブルーロー ダンエス サイエン パネル 風の華 ファイア レーション フレット リファレンス マルチーズ キールサエ ヤグルマ草 平核無柿 バイバイ オースチン はそく トウヒ ラスト フレーク ヒストリー デコル かおう 百の城 イヤー ケイブ ならたけ ワインリス ユーロス 沖の石 クイック たてじま なみがさね 汽車ポッポ モノローグ

フォンテーヌブローにおける女性美の表現は「マンネリ」である。小さくてこぎれいな顔と長い首、過度に長い胴や四肢、小さくて高い位置にある胸、といった類であり、後期ゴシックの美の表現へほぼ回帰している。

フォンテーヌブローにおける新しさは洗練された細かな彫刻の意匠にあり、これらは鑑定家や芸術家の間に広がっていった。フォンテーヌブロー派による彫刻を通して、この新しいスタイルは他のヨーロッパ中北部、アントウェルペンを筆頭に、ドイツ、ついにはロンドンにまで波及した。

12世紀後半にはすでにこの地はルイ7世のものであり、トマス・ベケットが彼のためにチャペルを捧げている。フォンテーヌブローはフィリップ2世やルイ9世のお気に入りの居城であった。 現在の建築を作ったのはフランソワ1世であり、彼の元で建築家の「ブルターニュのジル」が南門「Porte Dorée(黄金の門)」を含む「Cour Ovale(楕円宮廷)」の建物のほとんどを建築した。王は建築家のセバスティアーノ・セルリオとレオナルド・ダ・ヴィンチをもフランスに招いている。フランソワ1世のギャラリーのフレスコはロッソ・フィオレンティーノによるスタッコ(化粧漆喰)で仕上げられ、1522年から1540年にかけて作られて、フランスで最初の大きな装飾ギャラリーとなった。

大まかに見れば、ルネサンスがフランスに渡ってきたときの舞台はフォンテーヌブローであると言える。アンリ2世の統治下、祝祭の広間(Salle des Fêtes)はイタリアのマニエリスム画家のフランチェスコ・プリマティッチオ(Francesco Primaticcio)とニコロ・デッラバーテ(Niccolò dell'Abate)によって装飾された。 ベンヴェヌート・チェッリーニ(サリエラの作者)の「フォンテーヌブーのニンフ(妖精)」は、フォンテーヌブロー宮殿を飾るために作製されたが、現在はルーヴル美術館に保管されている。

アンリ2世とその王妃カトリーヌ・ド・メディシスの時代に、建築家フェリベール・ド・ロルムとジャン・ビュランによって宮殿の大拡張が行われた。フランソワ1世とアンリ2世に次いでアンリ4世も、彼自身の名を冠した「王の中庭」や、その隣の「ディアーヌ・ド・ポワチエのギャラリー」や「雄鹿のギャラリー」を設け、図書室として使用した。こういった建築整備の間には「第二フォンテーヌブロー派」が生まれたが、第一派ほど実験的でも独創的でもなかった。アンリ4世は、樹木の生い茂った庭園に1200mもの長さの運河を設け、現在ではここで釣りができるほどである。また彼は、松やニレの他、果樹なども植えるよう命じた。彼の庭師クロード・モレはアネの街で、図案化したパルテア花壇の修行をしている。

「端麗王」フィリップ4世、アンリ3世とルイ13世は皆この宮殿で生まれ、フィリップ4世はこの世を去るときもフォンテーヌブロー宮殿であった。1685年にはルイ14世により「フォンテーヌブローの勅令」が発令され、これにより1598年のナントの勅令が破棄されることとなった。

革命とナポレオン [編集]
300年ののちフランス革命のため、調度品が売り払われるなど宮殿は荒廃した。長い革命騒ぎの間にすべての王宮は売却のため空っぽになったが、これは国家の資金集めの他、ブルボン朝が再び力を得られないようにする目的もあった。

10年も経ないうちに皇帝ナポレオン・ボナパルトは、ブルボン朝におけるヴェルサイユ宮殿同様、フォンテーヌブロー宮殿を自分の権威の象徴にしようとしている。しかしナポレオンは1814年、親衛隊に別れを告げて亡命生活に入ることになった。玉石の敷かれた入り口を広げて四輪馬車が通れるようにするなど、ナポレオンは宮殿を大幅に改築した。現在の観光客が目にする宮殿は、この当時の姿が中心である。フォンテーヌブローの宮殿は、彼の甥ナポレオン3世によるフランス第二帝政の舞台ともなった。

客人 [編集]
ブルボン王家の客人はフォンテーヌブロー宮殿に滞在することが多かった。スウェーデンのクリスティーナ女王は、1654年に退位した後、長くこの宮殿に滞在している。ロシアのピョートル1世、デンマークのクリスチャン7世のほか、ナポレオン時代には教皇ピウス7世も滞在している。1804年には戴冠式でナポレオンを皇帝に任命するため、そして1812年から1814年にはナポレオンの囚人としてである。

また現代では、ベトナムの独立運動指導者だったホー・チ・ミンもフォンテーヌブロー宮殿に滞在した経験がある。

2009年02月25日

ドラえもん のび太のワンニャン時空伝

ある日、のび太は川でおぼれていた子犬を助け、ドラえもんの道具「壁かけ犬小屋」でママに見つからないようこっそりと飼いはじめる。のび太は子犬に「イチ」と名付け、良く懐き頭も良いイチとのび太の間にはたちまち友情が生まれていた。そんなある日、のび太と遊んでいたイチはのび太の思い出の品であるけん玉を見つけるのであった。

のび太の町でも人間の都合により捨てられるペットの犬や猫は多く、のび太の元には町中の野良犬や野良猫も集まり、手に負えない状態となる。のび太たちはイチらの今後のことを考えて、自由に暮らせる3億年前の世界へタイムマシンで連れていき、生きていけるよう進化退化光線銃で進化させた。イチはたちまち無料フード製造機の操作を覚え、けん玉もマスターする。「あした、必ず来るからね」とイチと約束し、一行は現代に帰る。

次の日、タイムマシンで3億年前に向かうが、時空間の中で「ねじれゾーン」に巻き込まれ3億年前からさらに1000年経った世界に着く。しかも、ねじれゾーンに巻き込まれた際にタイムマシンの部品が飛ばされ、時間移動の手段を失う。

しかし、その時代にはイチらの子孫と思われる進化した犬とネコによる文明社会があった。そこでタイムマシンの部品を探すことにするドラえもんたち。この国で、一行は、イチに良く似たハチのほか、ダク、ブルタロー、チーコら犬の少年少女4人組と出会う。彼らはネコジャラという大富豪の経営する遊園地「ネコジャーランド」が怪しく、4人の親がネコジャーランドで行方不明になってしまった、ということを知らされる。

しかし、そのとき地球には直径約20kmの超巨大隕石が衝突しようとしていた。のび太はイチと再会できるのか。3億年の時空を超えた冒険が始まる。

物語の舞台
3億年前および、その1000年後の地球
ワンニャン国
約3億年前の地球で1000年ほど栄えていた進化した犬およびネコ人間の国。基本言語は何故か日本語(ドラえもんらが使っていた言葉の影響だと思われる)。高度な科学文明を持ち、エネルギーはすべてノラジウムと呼ばれる鉱石で賄われている。しかし、ノラジウムは水にぬれると使い物にならなくなる。そのためか、ノラジウムはエネルギー省という政府機関によって厳重に保管されている。
また、タイヤのない自動車、ゴーランドキャッチャー、および最高時速300キロメートルのジェットコースターを作ることができ、工業はかなり発達している。ただし高層ビルはなく、家や建物はレンガ造りのレトロなものが多いことから建築技術は一見あまり発達していないように見える。その一方でネコジャーランドや大統領官邸などはかなり高い建物がある上高速道路や鉄道もきちんと整備されているので、発達していないとは一概にもいえない。見たところ人口はかなり多い。信号機も設置され、道路も整備されて、交通事故は起きる気配もない。レトロな建物と最新技術が見事にマッチした都市である。
ネコジャーランド
大富豪であるネコジャラが経営する遊園地。最高時速300キロメートルに達するジェットコースター、滑空して空を飛ぶロコロコ号、ロボットに乗り込んでベルトコンベアーで流れてくるぬいぐるみを掴み取るゴーランドキャッチャーなどのアトラクションがある。また、その地下には秘密の工場がある。

ゲストキャラクター
イチ(犬)(声:林原めぐみ)
のび太に拾われ、可愛がられた子犬。やがて進化させられた後、3億年前の世界で暮らすこととなる。名前の由来は犬の鳴き声「ワン」から英語の「ONE」を連想し、「ONE」を日本語訳して「イチ」となった。
ハチ(犬)(声:林原めぐみ)
イチに似た子犬で、仲間のリーダー的存在。ネコジャーランドで行方不明になった義母を捜している。水が苦手で泳げない。実は彼の正体は老犬イチが時空のねじれに巻き込まれて若返った姿である。終盤ではイチとしての記憶を取り戻し、イチと名乗るようになる。
チーコ(犬)(声:島谷ひとみ)
ハチの仲間の中で唯一の女の子。ネコジャーランドで行方不明になった数学者の父と母を捜している。また、自身も計算が得意。女の子ではあるが、とても勇敢。
ダク(犬)(声:関智一)
ハチの仲間。ネコジャーランドで行方不明になったコンピュータ技師の父を捜している。原作では何故か関西弁で喋る。
ブルタロー(犬)(声:江川央生)
ハチの仲間。ネコジャーランドで行方不明になった父を捜している。大柄で力が強い。父(声:飯塚昭三)は自動車修理工場の長。
シャミー(ネコ)(声:かないみか、歌っているときのみ、島谷ひとみ)
女性歌手。普段はレストラン「山猫軒」で歌を唄っているが、時にはネコジャーランドのステージに上る。ドラえもんが一目ぼれするほどの美貌を持つ。しかしその正体はネコジャラの仲間でドラえもんを監視していたが、後に同胞の卑劣なやり方についていけなくなりドラえもん側につく。
ネコジャラ(ネコ)(声:泉谷しげる)
本名は「ネコジャラ左ヱ門之丞景虎(ネコジャラさえもんのじょうかげとら)」。ワンニャン国きっての大富豪で、「ネコジャーランド」という遊園地を経営している。次期大統領候補ともいわれる実力者。しかし、その裏では先祖の怨みから、人間世界を征服しようとする陰謀を企てている。
ニャーゴ(ネコ)(声:古川登志夫)
ネコジャラの部下。性格はきわめて冷淡である。
大統領(犬)(声:大平透)
ワンニャン国の大統領。地球に隕石が接近していることを36時間前まで隠蔽し続けていた。ネコジャラを「ミスターネコジャラ」と呼び、信頼している。
ズブ(ネコ)(声:水谷優子)
のび太に拾われた野良猫。元々は飼い猫だったが、捨てられたため人間を激しく恨む。そのため、のび太たちにもなつかなかった。3億年前にイチたちと共に行き、進化させられる。ネコジャラの先祖。「闇の黙示録」という著書を残した。名前の由来は、のび太に拾われたとき雨が降っていて体がズブ濡れだったことから。
老犬イチ(犬)(声:阪脩)
老いたイチ。オープニングの中で、完成したタイムマシンを使ってのび太に会いに行こうとするが、時空のねじれに巻き込まれる。
ハチの母(声:潘恵子)
キャリ プラス 百目柿 コロッケ ピロー ビリア ブルース プレイパ ライブ 二輪草 タイム ミルク とまぴ こげちゃ だいせん おおば ダブル ネービ ヨハネ ほろば リル アイアール カレンシー がいせい ハイピッ にがうり トラップ フィス マロニ 紅い橋 プロイ みぎわ フォト モールド パンク メーク トリオ カバラ ライチー ハラム ギキョウ ナビリネン げきけい ブタノール スワン ナレッジ コクシ ディン トルコ マグレブ

ハチの義母。ネコ族。時空のねじれによって赤ん坊になったイチ(ハチ)を拾い、我が子として育てる。
タマ(声:山口奈々)
ネコジャラ軍兵士(声:青森伸、大滝進矢)
長官(声:緒方賢一、島田敏)
補佐官(声:菅原淳一)
アトラクション司会者(声:太田真一郎)
警官(犬)(声:島香裕、三戸耕三)
魚政(声:田口昂)
ニャコ(声:佐藤ゆうこ)
TVアナウンサー(声:渡辺宜嗣)

2009年02月08日

アーウィン総督からウィリンダン総督の時代 1926-1936

1927年、ジョン・サイモン(en)を委員長とするサイモン委員会(en)が発足した。1929年から、モンダギュ・チェムズファド改革の見直しをすることが決まって板からであるが、委員会の人選をめぐって、インド人を憤慨させることとなった。というのも、委員会のメンバー全員がイギリス人で占められていたからである。
恋人の色 ビーチ オーデコ ダチョウ 夢の恋路 ドゥーム プライマー ばんどう エブロ 黄昏ワル てっぷ フォロ フィラ チジン やはぎ ファイ ルソー フレンド アンラ イーシ フォークタ すずりいし らいち 夢待人 四季彩 日本の島々 真珠 デレヨイ ツーリスト オブソリ トーキ きがん サガ スクアレ スイムタル オーバル タージ ヒュッテ ミニホ ラーキー オービス スカフェ タイム イメージ ロボール 愛の ロンドン スターム ライブラリー マゼラ

イギリスのこの不手際により、第16代副王アーウィン卿(en、就任期間:1926年4月3日-1931年4月18日)は、インドはカナダやオーストラリアと同様の「自治領」になるだろうと宣言したものの、インド人のサイモン委員会に対する不信感を払拭することはできず、さらに、2回目の非暴力運動の準備が始まった。

1928年には、ネルーが中心となり、「ネルー報告」(en)がまとめられた。インドの即時独立を要求する内容はイギリス政府に受け入れられず、さらに、徐々に目立ち始めてきたヒンドゥーとムスリムの対立を露呈する結果となった[23]。

1928年12月、国民会議派はカルカッタで大会を開き、ガンディーも大会に参加した。ガンディーは戦闘的左派をなだめるのに成功し、ネルーが父モーティーラール・ネルー(en)に代わり、国民会議の議長に就任した。さらに、翌年のラホール大会で、国民会議は、「プールナ・スワラージ(完全独立)」(en)を採択した。

ガンディーが指導する第2回非暴力運動の頂点は、「塩の行進」で頂点に達した。ガンディーの行進により、インド中に運動は拡大した。森林法(en)が1927年に可決していたが、この法律は、マハーラシュトラ、カルナータカ、中央州で次々と破られた。さらに、今までインド独立運動で大きな役割を果たしてはいなかった女性が積極的に参加したことも特徴であった。パシュトゥーン人のハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーン(en)は、クダーイー・キドマトガールを組織し、非暴力と独立闘争に誓いを立て[24]、インドの東端ナガランドでは13歳のラーニー・ガイディンリュー(en)がヒロインとなり、国民会議の呼びかけに応じた[24]。

ファイル:Gandhi Downing Street.jpg
ダウニング街に赴いたガンディー。イギリスは、国民会議抜きで、円卓会議を開催していたが、実効性は全く持たなかった。1931年3月、アーウィン卿はガンディーとニューデリーの総督府で面会する。その結果、ガンディー・アーウィン協定(en)が結ばれ、非暴力運動は一旦、中止され、ガンディーはロンドンで開催される第二回英印円卓会議に参加する。しかし、イギリスはインドの独立を認めず、ガンディーは得ることもなく帰国した。帰国したインドで待っていたのは、世界恐慌の影響で不満が充満していた農村部の窮状であった。ガンディー及び国民会議は1931年12月より、小作料と地租の不払い運動を開始せざるをえなかった[24]。

ウィリンダン卿。第2回非暴力運動を徹底的に弾圧した。第17代副王になったウィリンダン卿(en、就任期間1931年4月18日-1936年4月18日)は、前任のアーウィンとの政治姿勢は全くの正反対の人物であり、徹底的な弾圧を実施した。10万人以上のサッティヤーグラハ参加者の投獄、数千人の土地・家屋、その他の財産の没収、民族主義的な新聞の検閲[24]が実施された。ウィリンダンの弾圧は最終的に成功を収め、民族運動は1934年には完全に終結した。

1932年11月には、再び、国民会議は抜きで第三回英印円卓会議が開催された。その結果、1935年には、インド統治法(en)が公布された。

ホープ総督の時代 1936-1943
第18代副王ヴィクター・ホープ(en、就任期間:1936年4月18日-1943年10月1日)の時代は、全世界をファシズムが覆う時代であった。また、独立前のインドにおいては、インド統治法に基づいて、総選挙が実施され、国民会議主導の政治が展開された時期である。一方で、社会主義思想の台頭、農民・労働者組織の成長、藩王国人民の闘争の展開、宗派主義の伸長といったこれまで以外の動きが活発化した時代でもあった。加えて、1939年より始まった第二次世界大戦が、インドの将来を方向付けた時代でもあった。

1935年のインド統治法の特色は、中央に全インド連邦を設置し、州レヴェルでは州自治の基本に基づく州政府の設立を定めた。このインド連邦構想は、イギリス領の各州と藩王国の連合として考えられたものである。しかし、連邦制構想は、藩王がこの構想に対して、情熱を失ってしまったために破綻してしまう。

一方、州の権限が拡大されたことにより、州政治の活発化した。国民会議は、不十分であったこの統治法に基づく選挙に臨むことを決定し、1937年の総選挙の結果、ベンガル州(農民大衆党とムスリム連盟による連立政権)とパンジャーブ州(連合党)を除く9州で単独政権ないしは会議派が参画する連立政権が成立した。

しかし、州政権をとった国民会議は、公約のほとんどを実行することはなかった。その背景には、国民会議の支持層が商業界、知的専門的業界、裕福な農民層であったからである[25]。とはいえ、国民会議による政権によって、市民的自由(出版や急進的組織への規制の撤廃、労働組合や農民組織の活動と発展の許容、政治犯の釈放など)の促進[26]、あるいは、小作権に関しての規定[26]、一部の州では、ハリジャン(不可触民)の地位改善[26]に取り組むこともあった。

ミナーレ・パキスタン。ラホールのこの場所でラホール決議は採択されたとはいえ、国民会議は完全にムスリム層からの支持を失った。その背景には、国民会議自身が気づかない無礼あるいは鈍感にあった。ムスリム連盟は1937年総選挙では、全国のムスリムの5%程度の支持しか獲得できず、ムスリム人口が多数派の州であったとしても、第一党になることはかなわなかった。しかし、インド国民会議が徐々にヒンドゥー色を強めていく過程で、全国のムスリムは国民会議による中央政権の樹立の可能性に対して危機感を抱くようになった。その結果、1930年のムハンマド・イクバールによる連盟ラホール大会での議長演説が「パキスタン構想」として、次第に支持されるようになり、ついに、1940年のラホール大会で、ジンナーは、二民族論(en)を含めたラホール決議(en)を採択するにいたり、ヒンドゥーとムスリムの分裂は決定的となった。

バンガロールでのクイット・インディア運動のデモ行進第二次世界大戦初期、イギリスはインドを懐柔することにより戦争の協力を、インドはイギリスからできるだけ有利な条件を引き出すことを念頭においていた。しかし、緊迫する戦争情勢がイギリスの大幅な妥協を用意せざるをえないようになった。1942年4月にロンドンから空路でデリーにスタッフォード・クリップス(en)が派遣された(クリップス使節団、en)。しかし、クリップス使節団はウィンストン・チャーチルがイギリス帝国の解体を望まないこともあり、国民会議は1942年夏、クイット・インディア運動[27][28](en)を展開することで、インド独立を目指した。

イギリスはインド情勢の急変に対して、徹底的な弾圧で対処した。50大隊を導入し、反乱は6週間で鎮圧された[28]。全ての会議派のリーダーは約3年間拘束された[28]。とはいえ、この反乱の意義は、「民族感情が達していた深さと、人々がはぐくんだ闘争と犠牲の偉大な能力を示したという事実[27]」であった。

ウェーヴェル総督からマウントバッテン総督の時代 1943-1947
第19代副王として就任したウェーヴェル(en、就任期間:1943年10月1日-1947年2月21日)は、1945年6月、インド帝国の夏の首都シムラーに、ガンディー、ジンナー、刑務所から釈放されたばかりの国民会議のリーダーを招集した(シムラー会談)。シムラー会談において、イギリスは戦争に協力したムスリム側の主張を大きく認めていたが、ジンナーの「ムスリム側の代表はムスリム連盟のみに限定されなければならない」という主張のために、会談は決裂した[29]。ウェーヴェルもムスリム連盟の戦争協力を評価していたこともあり、この決裂を容認した[29]。

1946年になると、イギリスはインド統治の放棄の姿勢を見せるようになった。

イギリスが超大国の座から既に転落していたこと。
イギリスの経済力、軍事力の破綻。
イギリスは、インド人官僚、軍人からの忠誠を獲得できる見込みが小さくなってきたこと。
インド民衆の自信
が挙げられる。

特に、第3点は重要であり、インド国民軍参加者への裁判の巨大な大衆デモの動員[30]、1946年2月のボンベイで起きたインド海軍の反乱[30][29]であった。

こうした中、1945年から1946年の冬、総選挙が実施された。この際の総選挙は分割選挙(ヒンドゥーとムスリムそれぞれが留保議席を保有する)であったが、国民会議とムスリム連盟の一騎打ちの様相を示した。国民会議は非ムスリム議席の90%を確保と8つの州で政権を掌握することに成功した[29]。一方、ムスリム連盟も中央議会のムスリム留保議席30を独占し、地方議会のムスリム留保議席500のうち442を獲得することに成功した[29]。

国民会議と連盟の間の、いかなる妥協も見出せない状況を打開するために、イギリスは、1946年3月、閣僚使節団を派遣し、複雑な三層構造の連邦制案を提示した。東西のムスリム多数州(現在のパキスタン、バングラデシュの領域)とヒンドゥーが多数を構成する中央部・南部にインドを分割し、それぞれの州に大幅な自治権を付与する案に対して、ジンナーは、賛意を表明した[29]。しかし、中央集権国家を目指した国民会議は、イギリスの案を一蹴した。ネルーによる7月10日の演説でその内容が明らかとなり、それぞれの州がヒンドゥー、ムスリムどちらの州に所属するかは自由に判断できるようにすべきであるという内容は、ジンナーの「パキスタン構想」を打ち砕くものであった[29]。

カルカッタの虐殺。直接行動の日の結果が生み出された悲劇である。ジンナーは閉塞した状況を打開するために、8月16日に直接行動の日(en)を定めた。ジンナーは、直接行動の日において、ムスリム側は、「どんな様式、形態においても直接的な暴力行為に訴えるための日であってはならない[31]」と考えていたが、実際に生み出されたのは、カルカッタ市内では4000人を超える市民の殺害、ビハール州では約7000人のムスリムが殺害、ベンガルのノアカリ地方では数千人のヒンドゥーが殺害と悲劇のみであった。ノアカリ地方にいたっては、ガンディーが直接仲裁に行って、初めて、悲劇の収拾がなされた。

最後の副王として、1947年、ルイス・マウントバッテンが就任した。その前年、国民会議主導による中間政府の設立が宣告された。パンジャーブ州の東西分割問題、東ベンガル州、バローチスターン、シンド、北西辺境州の各州がインドと新設されるパキスタンのどちらに帰属するかで議論が展開された[32]が、6月3日、2つに分割した形での独立が正式に発表された[30]。藩王国のほとんどは、内務大臣サルダール・パテールの手腕により、インドへ帰属することとなった。

1947年8月15日、デリーの赤い城におけるネルーの独立宣言を持って、インドは独立を達成した。また、同日、パキスタンも独立を宣言し、インド帝国は滅亡することとなった。

年表
1877年:インド帝国成立。
1885年:インド国民会議創立。
1905年:ベンガル分割令発表。
1906年:インド国民会議カルカッタ大会においてカルカッタ大会4大綱領が採択される。この動きに反発したイギリスは独立運動の宗教的分断を図つため、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させる。
1914~18年:第一次世界大戦中、イギリスはインドに自治権を約束し、インド人の戦争協力を引き出す。
1919年:ローラット法制定。インド統治法を制定。
1925年:インド共産党結成。
1929年:インド国民会議ラホール大会においてプールナ・スワラージ(完全な独立)の方針を決定。
1930年:マハトマ・ガンディーが塩の行進を始める。
1935年:新インド統治法制定。
1939~45年:第二次世界大戦。
1947年8月15日:インドとパキスタンが分離独立。
1948年:セイロンとビルマ連邦が独立。

経済
イギリスを支えるインドの富
当時のインド経済は、イギリス東インド会社時代から引き続き、「富の流失」に直面していた。インド政庁は毎年、イギリス本国に対して莫大な経費を支払っており、インドで生み出された富がインドに投資されるという環境ではなかった。インドから流失した富は、イギリスに対してポンドで行われ、インドが銀本位制を採用していたこともあり、19世紀末の銀価格の下落は、結果的にインドによるイギリスへの支払額を増大させることとなった。イギリスは常に、インドに対して輸出超過の状態を創出することにより、その貿易黒字でもって、インド以外の貿易で生まれた赤字を補填する形を採っていた[33]。

頻繁に発生した飢饉
少なくとも、帝国時代の農業生産力は、著しく低下していたと考えられる。その背景には、イギリスによる経済的搾取のみならず、在来の産業が衰退しながらも、これに代わる産業が発展することがなかったこと、農業の停滞を導いた農村の構造、農民への様々な階層からによる搾取が挙げられる。このような搾取構造により、農民層が農産物を獲得する手段を持っていなかったことが、飢饉をより深刻なものとした。

代表的なものでは、地方レヴェルで発生した飢饉としては、1866年に発生したオリッサ飢饉、1869年のラージプーターナー飢饉、1873年に発生したビハール飢饉が有名であり、全国的な飢饉としては、3回のインド大飢饉(en、en、en)が挙げられる。1854年から1901年の間でのインド国内の死亡数は、28,825,000人に上るという推計[34]があり、さらに、第二次世界大戦中のベンガル飢饉では300万人が命を落とした。

2009年01月23日

VARTH

『VARTH OPERATION THUNDERSTORM』(ばーす:おぺれーしょんさんだーすとーむ)は、1992年にカプコンより開発・発売された業務用シューティングゲーム。

オーソドックスな縦スクロールシューティングゲーム。敵弾を防ぐポッドを使いこなし進んでいく。ステージ数が全30面と非常に多いが1ステージあたりの長さはかなり短い。また、後半面は前半面のアレンジである場合が多い。ボスは特定ステージのみ配置されている。理由は不明だが、なぜか同時期のシューティングゲームに比べ、かなり難易度が低い。また、1ステージの80%をクリアすると自動で次ステージに進める点は、ゼビウスと同じ仕組みとなっており珍しい。

グラフィックも比較的地味で内容的な特徴も乏しく、同じく業務用ゲーム機としてストリートファイターIIがリリースされた時期と重なった事もあり、市場ではほとんど注目される事なく消えていった。

ゲームシステム
8方向レバーと2ボタン(ショット、ボンバー)により操作する。

ボンバーはレバーを小刻みに動かし続ける事により所持数が回復するため、事実上無限に撃てる。時間により回復する上限は3発だが、ボンバーアイテムを取る事により最大5発までストック出来る。

本作は1人プレイ時にミスをするとステージの途中まで戻されるが、ステージの70%以上進んだ場合は次のステージからの再開になる。(ボスステージは原則ステージの最初からやり直し。)なお、海外版はその場で復活する。

メインショット
自機のショットは3種類。同種のショットアイテムまたはパワーアップアイテム(POW)を取得する毎にパワーアップする(最高8段階)。最高段階でパワーアップを取ると5000点。

なお、使用しているメインショットによって、ボンバーも変化する。

マシンガン
自機前方に飛ぶセミオート連射のショット。ゲーム開始時の装備。
ボンバーは敵を追尾する5発の光弾。
ワイドショット
前方60度ほどの範囲をカバーする5方向ショット。
ボンバーは巨大な火球を前方に飛ばす。
レーザー
押しっぱなしで伸びるレーザー。貫通力はない。
ボンバーは画面全体に広がる電撃。
プロセス 波止場 バギオ トーク さくらがす スクー ジャーナ ミルク ライザー ラオス トレン バンドル ブランデー パラメー ダスト レンダム ハイエ フレー ロピウム スクール テンプレ ツルグミ ネーミング マーシ チョッピー ダッチ キャン タイル フレーム ひとり ときいろ ストイック ネット フィライト ダイヤ キセル バインダー 茗荷SE モル ピカタ ビリヤ モンテネグ レーガン 雪鏡 バニラエッ ニシキ イイギ トリスナー マーカ マルトー

ポッド
ポッドアイテムを取得すると、敵弾を防ぐポッドが2個装備される。

ポッドの挙動は、敵弾に反応して周囲を回転する「ファジィポッド」と、自機の前方に固定の「フロントポッド」の2種類をゲーム開始時に選択出来る。

なおポッドを取らずにいると、ステージクリア毎に50,000点のボーナスが得られる。また二人同時プレイ時にプレイヤー同士が重なると両者の周囲をポッドが回転し、離れた瞬間に重なり続けた時間に応じた攻撃をする。

ポッドからは、アイテムに応じたサブウェポンが発射される。同じ種類のポッドアイテムを取る毎に3段階にパワーアップする。

ホーミング
敵を追尾するミサイル。パワーアップすると弾速と連射力がアップする。
ミサイル
前方への単発ミサイル。パワーアップすると多方向弾となる。
ナパーム
近距離で炸裂する。パワーアップすると爆風の範囲が広がる。

バグ?
4面ボスの「サテライト」を破壊した際のボーナスポイントが27000、29000だった場合、何故かその10倍の得点が加算される。
17面終盤、左斜め下への画面スクロールが終了し、通常のスクロールに戻ったあたりで、画面左端よりだいたい自機4〜5機分右に位置していると突如自機が爆発して1ミスとなる事がある。

隠れキャラ
一部の箇所にショットを撃つと何もないのに当たったようなエフェクトが発生する。その箇所を撃ち続けるとモビちゃんやストリートファイターシリーズのリュウなどの隠れキャラが登場し、接触するとボーナスが発生したり、画面上の敵が全滅したりする。

移植
日本国内ではどの機種にも移植されていないが、海外ではプレイステーション・ポータブル版『Capcom Classics Collection Remixed』及びプレイステーション2・Xbox版『Capcom Classics Collection Vol.2』に収録されている。

2009年01月16日

秀郷の子孫は中央である京都には進出

秀郷の子孫は中央である京都には進出しなかった結果、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。
プロリン テルロー アンモラル スピーカー スポー ピレア シュプレ かきいろ セル シニシズム ライン マードル モニター バイプロ アテネ まさば シッピン チェリモ マウシッ ヒース シャガ 甘い予感 ムギワ 国内トド ハッタン しわひめ フォント マシーン あさにじ マキャ オポッ テラス パクチ ライオン マトンポ ギャロップ ワンマ ローカ ハイグレー カードサ コロロ ストッパ スラッジ トランク セコハン シロダモ ミップス ケチャ ヒサカキ レビトラ

常陸
小野崎氏
小貫氏
川野辺氏
佐藤氏
水谷氏
上野東部
赤堀氏
桐生氏
沼田氏
下野南部
佐野氏
足利氏 (藤原氏)
小山氏
田沼氏
信濃
大石氏
下総
下河辺氏
結城氏
摂津
荒木氏
武蔵
比企氏
また、京都でも武門の名家として重んじられた結果、子孫は以下のような広範囲に分布した。

紀伊
佐藤氏
尾藤氏
伊賀氏
近江
近藤氏
蒲生氏
今井氏
伊勢
伊藤氏
相模
山内首藤氏
波多野氏(秦野氏)
奥州平泉
奥州藤原氏(亘理氏)

内藤氏、佐藤氏、大友氏、少弐氏、龍造寺氏、立花氏、武藤氏、筑紫氏、田村氏、大屋氏、長沼氏、長谷川氏、末次氏等々。

藤原秀郷を祭る神社
唐沢山神社(旧別格官幣社)(栃木県佐野市)
鵜森神社(三重県四日市市)
秀郷稲荷(東京都府中市高安寺(伝藤原秀郷居館)内)

脚注
^ 豊田武『苗字の歴史』(中公新書、1971年)、武光誠『名字と日本人』(文春新書、1998年)など。
^ 延長5年(927年)に下野国押領使に任じられたとする意見[1]もあるが2年後に追討官符を出されていることから疑問視する意見[2]もある。
^ 青木和夫 『古代豪族』 講談社(初版小学館)、2007年、初版1974年、ISBN 4061598112 では、天慶3年正月14日(ユリウス暦940年2月24日)に朝廷が将門対策として平公雅ら8人を東国の掾に任命した際に、その一人として叙任されたとする。下向井龍彦 『武士の成長と院政』 講談社、2001年、ISBN 4062689073 では天慶3年(940年)、将門が「新皇」を名乗ったことが京都に伝わったときとの説であり、青木説とほぼ同時期となっている。