1927年、ジョン・サイモン(en)を委員長とするサイモン委員会(en)が発足した。1929年から、モンダギュ・チェムズファド改革の見直しをすることが決まって板からであるが、委員会の人選をめぐって、インド人を憤慨させることとなった。というのも、委員会のメンバー全員がイギリス人で占められていたからである。
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イギリスのこの不手際により、第16代副王アーウィン卿(en、就任期間:1926年4月3日-1931年4月18日)は、インドはカナダやオーストラリアと同様の「自治領」になるだろうと宣言したものの、インド人のサイモン委員会に対する不信感を払拭することはできず、さらに、2回目の非暴力運動の準備が始まった。
1928年には、ネルーが中心となり、「ネルー報告」(en)がまとめられた。インドの即時独立を要求する内容はイギリス政府に受け入れられず、さらに、徐々に目立ち始めてきたヒンドゥーとムスリムの対立を露呈する結果となった[23]。
1928年12月、国民会議派はカルカッタで大会を開き、ガンディーも大会に参加した。ガンディーは戦闘的左派をなだめるのに成功し、ネルーが父モーティーラール・ネルー(en)に代わり、国民会議の議長に就任した。さらに、翌年のラホール大会で、国民会議は、「プールナ・スワラージ(完全独立)」(en)を採択した。
ガンディーが指導する第2回非暴力運動の頂点は、「塩の行進」で頂点に達した。ガンディーの行進により、インド中に運動は拡大した。森林法(en)が1927年に可決していたが、この法律は、マハーラシュトラ、カルナータカ、中央州で次々と破られた。さらに、今までインド独立運動で大きな役割を果たしてはいなかった女性が積極的に参加したことも特徴であった。パシュトゥーン人のハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーン(en)は、クダーイー・キドマトガールを組織し、非暴力と独立闘争に誓いを立て[24]、インドの東端ナガランドでは13歳のラーニー・ガイディンリュー(en)がヒロインとなり、国民会議の呼びかけに応じた[24]。
ファイル:Gandhi Downing Street.jpg
ダウニング街に赴いたガンディー。イギリスは、国民会議抜きで、円卓会議を開催していたが、実効性は全く持たなかった。1931年3月、アーウィン卿はガンディーとニューデリーの総督府で面会する。その結果、ガンディー・アーウィン協定(en)が結ばれ、非暴力運動は一旦、中止され、ガンディーはロンドンで開催される第二回英印円卓会議に参加する。しかし、イギリスはインドの独立を認めず、ガンディーは得ることもなく帰国した。帰国したインドで待っていたのは、世界恐慌の影響で不満が充満していた農村部の窮状であった。ガンディー及び国民会議は1931年12月より、小作料と地租の不払い運動を開始せざるをえなかった[24]。
ウィリンダン卿。第2回非暴力運動を徹底的に弾圧した。第17代副王になったウィリンダン卿(en、就任期間1931年4月18日-1936年4月18日)は、前任のアーウィンとの政治姿勢は全くの正反対の人物であり、徹底的な弾圧を実施した。10万人以上のサッティヤーグラハ参加者の投獄、数千人の土地・家屋、その他の財産の没収、民族主義的な新聞の検閲[24]が実施された。ウィリンダンの弾圧は最終的に成功を収め、民族運動は1934年には完全に終結した。
1932年11月には、再び、国民会議は抜きで第三回英印円卓会議が開催された。その結果、1935年には、インド統治法(en)が公布された。
ホープ総督の時代 1936-1943
第18代副王ヴィクター・ホープ(en、就任期間:1936年4月18日-1943年10月1日)の時代は、全世界をファシズムが覆う時代であった。また、独立前のインドにおいては、インド統治法に基づいて、総選挙が実施され、国民会議主導の政治が展開された時期である。一方で、社会主義思想の台頭、農民・労働者組織の成長、藩王国人民の闘争の展開、宗派主義の伸長といったこれまで以外の動きが活発化した時代でもあった。加えて、1939年より始まった第二次世界大戦が、インドの将来を方向付けた時代でもあった。
1935年のインド統治法の特色は、中央に全インド連邦を設置し、州レヴェルでは州自治の基本に基づく州政府の設立を定めた。このインド連邦構想は、イギリス領の各州と藩王国の連合として考えられたものである。しかし、連邦制構想は、藩王がこの構想に対して、情熱を失ってしまったために破綻してしまう。
一方、州の権限が拡大されたことにより、州政治の活発化した。国民会議は、不十分であったこの統治法に基づく選挙に臨むことを決定し、1937年の総選挙の結果、ベンガル州(農民大衆党とムスリム連盟による連立政権)とパンジャーブ州(連合党)を除く9州で単独政権ないしは会議派が参画する連立政権が成立した。
しかし、州政権をとった国民会議は、公約のほとんどを実行することはなかった。その背景には、国民会議の支持層が商業界、知的専門的業界、裕福な農民層であったからである[25]。とはいえ、国民会議による政権によって、市民的自由(出版や急進的組織への規制の撤廃、労働組合や農民組織の活動と発展の許容、政治犯の釈放など)の促進[26]、あるいは、小作権に関しての規定[26]、一部の州では、ハリジャン(不可触民)の地位改善[26]に取り組むこともあった。
ミナーレ・パキスタン。ラホールのこの場所でラホール決議は採択されたとはいえ、国民会議は完全にムスリム層からの支持を失った。その背景には、国民会議自身が気づかない無礼あるいは鈍感にあった。ムスリム連盟は1937年総選挙では、全国のムスリムの5%程度の支持しか獲得できず、ムスリム人口が多数派の州であったとしても、第一党になることはかなわなかった。しかし、インド国民会議が徐々にヒンドゥー色を強めていく過程で、全国のムスリムは国民会議による中央政権の樹立の可能性に対して危機感を抱くようになった。その結果、1930年のムハンマド・イクバールによる連盟ラホール大会での議長演説が「パキスタン構想」として、次第に支持されるようになり、ついに、1940年のラホール大会で、ジンナーは、二民族論(en)を含めたラホール決議(en)を採択するにいたり、ヒンドゥーとムスリムの分裂は決定的となった。
バンガロールでのクイット・インディア運動のデモ行進第二次世界大戦初期、イギリスはインドを懐柔することにより戦争の協力を、インドはイギリスからできるだけ有利な条件を引き出すことを念頭においていた。しかし、緊迫する戦争情勢がイギリスの大幅な妥協を用意せざるをえないようになった。1942年4月にロンドンから空路でデリーにスタッフォード・クリップス(en)が派遣された(クリップス使節団、en)。しかし、クリップス使節団はウィンストン・チャーチルがイギリス帝国の解体を望まないこともあり、国民会議は1942年夏、クイット・インディア運動[27][28](en)を展開することで、インド独立を目指した。
イギリスはインド情勢の急変に対して、徹底的な弾圧で対処した。50大隊を導入し、反乱は6週間で鎮圧された[28]。全ての会議派のリーダーは約3年間拘束された[28]。とはいえ、この反乱の意義は、「民族感情が達していた深さと、人々がはぐくんだ闘争と犠牲の偉大な能力を示したという事実[27]」であった。
ウェーヴェル総督からマウントバッテン総督の時代 1943-1947
第19代副王として就任したウェーヴェル(en、就任期間:1943年10月1日-1947年2月21日)は、1945年6月、インド帝国の夏の首都シムラーに、ガンディー、ジンナー、刑務所から釈放されたばかりの国民会議のリーダーを招集した(シムラー会談)。シムラー会談において、イギリスは戦争に協力したムスリム側の主張を大きく認めていたが、ジンナーの「ムスリム側の代表はムスリム連盟のみに限定されなければならない」という主張のために、会談は決裂した[29]。ウェーヴェルもムスリム連盟の戦争協力を評価していたこともあり、この決裂を容認した[29]。
1946年になると、イギリスはインド統治の放棄の姿勢を見せるようになった。
イギリスが超大国の座から既に転落していたこと。
イギリスの経済力、軍事力の破綻。
イギリスは、インド人官僚、軍人からの忠誠を獲得できる見込みが小さくなってきたこと。
インド民衆の自信
が挙げられる。
特に、第3点は重要であり、インド国民軍参加者への裁判の巨大な大衆デモの動員[30]、1946年2月のボンベイで起きたインド海軍の反乱[30][29]であった。
こうした中、1945年から1946年の冬、総選挙が実施された。この際の総選挙は分割選挙(ヒンドゥーとムスリムそれぞれが留保議席を保有する)であったが、国民会議とムスリム連盟の一騎打ちの様相を示した。国民会議は非ムスリム議席の90%を確保と8つの州で政権を掌握することに成功した[29]。一方、ムスリム連盟も中央議会のムスリム留保議席30を独占し、地方議会のムスリム留保議席500のうち442を獲得することに成功した[29]。
国民会議と連盟の間の、いかなる妥協も見出せない状況を打開するために、イギリスは、1946年3月、閣僚使節団を派遣し、複雑な三層構造の連邦制案を提示した。東西のムスリム多数州(現在のパキスタン、バングラデシュの領域)とヒンドゥーが多数を構成する中央部・南部にインドを分割し、それぞれの州に大幅な自治権を付与する案に対して、ジンナーは、賛意を表明した[29]。しかし、中央集権国家を目指した国民会議は、イギリスの案を一蹴した。ネルーによる7月10日の演説でその内容が明らかとなり、それぞれの州がヒンドゥー、ムスリムどちらの州に所属するかは自由に判断できるようにすべきであるという内容は、ジンナーの「パキスタン構想」を打ち砕くものであった[29]。
カルカッタの虐殺。直接行動の日の結果が生み出された悲劇である。ジンナーは閉塞した状況を打開するために、8月16日に直接行動の日(en)を定めた。ジンナーは、直接行動の日において、ムスリム側は、「どんな様式、形態においても直接的な暴力行為に訴えるための日であってはならない[31]」と考えていたが、実際に生み出されたのは、カルカッタ市内では4000人を超える市民の殺害、ビハール州では約7000人のムスリムが殺害、ベンガルのノアカリ地方では数千人のヒンドゥーが殺害と悲劇のみであった。ノアカリ地方にいたっては、ガンディーが直接仲裁に行って、初めて、悲劇の収拾がなされた。
最後の副王として、1947年、ルイス・マウントバッテンが就任した。その前年、国民会議主導による中間政府の設立が宣告された。パンジャーブ州の東西分割問題、東ベンガル州、バローチスターン、シンド、北西辺境州の各州がインドと新設されるパキスタンのどちらに帰属するかで議論が展開された[32]が、6月3日、2つに分割した形での独立が正式に発表された[30]。藩王国のほとんどは、内務大臣サルダール・パテールの手腕により、インドへ帰属することとなった。
1947年8月15日、デリーの赤い城におけるネルーの独立宣言を持って、インドは独立を達成した。また、同日、パキスタンも独立を宣言し、インド帝国は滅亡することとなった。
年表
1877年:インド帝国成立。
1885年:インド国民会議創立。
1905年:ベンガル分割令発表。
1906年:インド国民会議カルカッタ大会においてカルカッタ大会4大綱領が採択される。この動きに反発したイギリスは独立運動の宗教的分断を図つため、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させる。
1914~18年:第一次世界大戦中、イギリスはインドに自治権を約束し、インド人の戦争協力を引き出す。
1919年:ローラット法制定。インド統治法を制定。
1925年:インド共産党結成。
1929年:インド国民会議ラホール大会においてプールナ・スワラージ(完全な独立)の方針を決定。
1930年:マハトマ・ガンディーが塩の行進を始める。
1935年:新インド統治法制定。
1939~45年:第二次世界大戦。
1947年8月15日:インドとパキスタンが分離独立。
1948年:セイロンとビルマ連邦が独立。
経済
イギリスを支えるインドの富
当時のインド経済は、イギリス東インド会社時代から引き続き、「富の流失」に直面していた。インド政庁は毎年、イギリス本国に対して莫大な経費を支払っており、インドで生み出された富がインドに投資されるという環境ではなかった。インドから流失した富は、イギリスに対してポンドで行われ、インドが銀本位制を採用していたこともあり、19世紀末の銀価格の下落は、結果的にインドによるイギリスへの支払額を増大させることとなった。イギリスは常に、インドに対して輸出超過の状態を創出することにより、その貿易黒字でもって、インド以外の貿易で生まれた赤字を補填する形を採っていた[33]。
頻繁に発生した飢饉
少なくとも、帝国時代の農業生産力は、著しく低下していたと考えられる。その背景には、イギリスによる経済的搾取のみならず、在来の産業が衰退しながらも、これに代わる産業が発展することがなかったこと、農業の停滞を導いた農村の構造、農民への様々な階層からによる搾取が挙げられる。このような搾取構造により、農民層が農産物を獲得する手段を持っていなかったことが、飢饉をより深刻なものとした。
代表的なものでは、地方レヴェルで発生した飢饉としては、1866年に発生したオリッサ飢饉、1869年のラージプーターナー飢饉、1873年に発生したビハール飢饉が有名であり、全国的な飢饉としては、3回のインド大飢饉(en、en、en)が挙げられる。1854年から1901年の間でのインド国内の死亡数は、28,825,000人に上るという推計[34]があり、さらに、第二次世界大戦中のベンガル飢饉では300万人が命を落とした。